現在ではさまざまなものが多彩な形でリサイクルされております。古着屋も洋服のリサイクルを行っているような仕事といえますね。ところで、古着屋の歴史とはどのようなものでしょうか?いつ、どのような経緯で現在の形になったのか気になりますね。また、古着には海外からの輸入物もたくさんありますが、日本だけでなく海外の歴史はどうなっているのでしょうか?そこで、ここでは日本や海外の古着の歴史についてみていきたいと思います。

室町時代には既にあった!

室町時代の絵画には既に古着屋が登場しています。昔は現代のように機械がなく、布の原料を作るところから縫って完成させるまですべて手作業で行いました。また、量も限られていたため、本当にボロになるまで流通し続けました。その頃の名残で古着を「ボロ」と呼ぶこともあります。

江戸時代には当たり前に

高価な着物は質草に、庶民の着古したものは古着屋にというサイクルは既に完成した時代です。かなりの数の古着屋が営業していたことが’確認されておりその数3,950件、122人に1軒の割合だというのは驚きですね。こんなにあっては商売が成り立たないようにみえますが、ここにはからくりがあります。江戸の人口を単純に割り算して122人という数字を出しましたが、江戸に住んでいる人以外にも江戸の外から仕事を求め短期でやってくる人もかなりいたようなのです。そんな人達が気軽に利用していたため商売も安泰だったのでしょう。この時代にも機械はなく布は貴重な時代であり、ボロになるまでリサイクルされていたという記録が残っています。

海外の古着事情

海外にもたくさんの古着屋があり、日本からも買い付けに行くバイヤーが多くいらっしゃいます。海外の古着屋事情には蚤の市の存在も忘れてはなりません。蚤の市とはフリーマーケットのようなもので、元はノミのわいたような古着を主な商品としていたことに由来します。現在は服だけでなくさまざまな物を取り扱っており、古いアパルトマンを蚤の市で買った材料でリフォームしたりするなど、物を大切にする欧米の心をみることができます。蚤の市の歴史も古く1700年頃には古着の交換や販売をする場所だったとの記録があります。その後出店許可が必要になるなど規制があった地域もありますが、これらも文化が古着屋に影響を与えているのは間違いなさそうです。

戦後の日本に古着の転換期

第二次世界大戦直後の日本は大変な物不足に悩まされます。着るものも例外ではなく、アメリカから大量に輸入された古着を浅草や上野で売られていました。中には、軍の払い下げもものや、スーツやシャツ・パンツといったものも売られていたようです。昭和50年代に入るとヒッピーブームが始まり、新品ではない古着にファッション的な価値を見出す人が増えてきます。当時は新品でのアメリカンスタイルのファッションを手に入れることは難しかったため古着を求める若者に目をつけ、当時ファッションに興味を持つ人が集まり始めた原宿で古着屋が増え始めました。この辺りで古着はファッション性のあるものに変化していきます。その後、バブル期が到来し、ビンテージジーンズに200万円の価格がつくなど古着屋にもバブルの波が押し寄せたのです。

近代の古着屋

平成になると古着ブームが訪れます。ビンテージ加工のジーンズが市民権を得て、ファッション通以外も気軽に古着屋を利用する環境が整いました。また、循環型社会にも光が当たり買い取りもする大型の古着屋チェーン店が全国に発生したのもこの頃です。

現代の古着屋

現在でもたくさんの古着屋があり、その数およそ3,000件といわれています。古着屋以外でも、フリーマーケットやオークションでたくさんの古着が取引されていますね。また、以前は若者を中心に販売されていたダメージ加工された衣類は子供用や40~60代の大人用のものまで幅広く展開され、古着に対する意識の変化が伺えます。また、大量消費型の世の中でファストファッションブランドの進出もめざましく、流行も目まぐるしく変わることから買い取り型のチェーン店を活用する年齢層も幅広く変化しているのです。古着屋を取り巻く環境はこれからも大きく変化していることが予想されます。

歴史ある古着屋

古くは室町時代から存在していた古着屋、現代にいたるまでさまざまな場面がありましたね。戦後まではどちらこというと生きるために必要という意味合いが強くありました。しかし、現在では、新品では味わえない雰囲気や、掘り出し物をみつけるトレジャーハンターのようなワクワク感で多くの若者を魅了しています。バブル期のような無茶な価格は落ち付き、ファッションにお金を掛けたくても難しい方たちも利用しやすい店も多くあります。おしゃれを重視して海外の古着を扱う古着屋だけでなく、買い取り型の古着屋も増えている現代は必要に応じで選ぶことのできる古着の黄金期といえるのかもしれませんね。